【読了】メディアとしての電話
大学の図書館で借りたので、カバーがない。。
写真は背表紙。
初版が平成4年なのでかなり古い本だけど非常に楽しく読めたし、この最後のまとめに入る直前のこの一段は素直に「イイ☆」と感じた。
「高度情報化社会論」が描き出す未来社会の様子を、テクノロジーの発達がもたらしたすばらしいことがらであるとして礼賛する。しかし、それらと驚くほど共通性をもった状況が、十九世紀半ば以降のテレ・コミュニケーションの発達や、電化の進展のなかにも見いだせるのである。
テレビもラジオも、そして僕が最も深い関心を抱いているインターネットも「メディア」と呼ばれているけど、イマイチ「電話 = メディア」という発想は本書を読むまではピンとこなかった。
そもそもメディアとは何なのか。この本にはこう書いてある。
マーシャル・マクルーハンのメディアの理解によれば、メディアとは、私たちの身体の一部を拡張する技術である。たとえば電話は、私たちの耳あるいは口を、通常の身体では届かない遠くへと拡張する。テレビであれば、加えて目を拡張していることになるだろう。
この理解で言うと「鉄道も身体を遠くに移動させる(拡張させる)のでメディアである」と。
何故僕らは話すのか。例えば僕が僕以外のMs. Jane Doeに話す場合、僕が持っている情報をJaneに伝える以上の意味が「コミュニケーション」に含まれている。
話す、コミュニケートするという行為は、あるメッセージを伝達する行為であると同時に、そのメッセージを伝達しようとする自分の存在を、メッセージを受容する相手に受け入れさせる営みである。
自分の存在を強く意識していなければ、相手に対して話すという行為そのものはさして重要なコミュニケーションではないのかもしれない。
目は口程にものを言うという諺がある通り、僕がJaneと直に対面して話をしている時にはきっと目の動きや表情、あるいは声のトーンといったものでJaneには僕が伝えようとしている情報以上のものが伝わる。
# エロそうな目で見ているとか、鼻の下がノビているとかそういう意味でわないw
でも一方で、直接面と向かって伝え難いことでも電話なら話せる事もあるし、今日で言うと直接会って言うよりも、電話で言うよりも「メールで伝える」方が気兼ねなく伝えられる、という事も多々ある。
本書が指摘している
「電話の下手な子」や「電話嫌い」が、電話を通常のコミュニケーションとは異なる「ふれあい」の場としてうまく使いこなすことができない一方で、「電話中毒者」たちは、電話という顔のないコミュニケーションのなかに、対面的な対話の場における互いの顔から解放された、もう一つのコミュニケーションの空間を見いだしているのである。
というのがまさにその感覚に近いんじゃぁないかな。
またダイヤルQ2や伝言ダイヤルなどの物議を醸した電話の利用実態についても触れられていて、
このような電子的な単身者の集合体は、八十年代末以降、しばしば「おたく」として問題化されてきた層とある程度まで重なっている。(中略)彼らに共通しているのは、特定ジャンルの情報を高度に摂取し、それらを組み換えながら、仮想的な仲間意識を形成していることである。
インターネットコミュニティにも当てはまるよね。例えばはてな界隈に集っている人とか2ちゃんねらーとか。仮想的な仲間意識、という表現をインターネットにリンクさせると一部の敏感な人達に「インターネットは距離を縮めるだけで、仮想じゃない。リアルそのものだ」と言われるんだろうなぁ。ま、その辺は一応認識しているつもりではいますがまだまだ勉強不足であるような気がする今日この頃。
もっと精進しないといかんなぁ。。
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